Ab ovo usque ad mala

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【日本語訳】「人物」タオパパインタビュー

   

 黄子韬の父が黄子韬について語る:
韬のことを愚かだという人々がいるが、彼のようなタイプの人間は非常に現実的で、簡単には疲弊しないんです。

 

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あなたが愚かな人間であっても、軽率な人間であっても、私は何も恐れません。ただ自分らしくあればいい。もし私が韬の性格を変えてしまえば、それはもう黄子韬ではなくなります。性格を変える必要なんて全くないんです。

 

黄子韬は1990年代に生まれた俳優・歌手であり、EXOの元メンバーでもある。黄子韬は昨年4月、吴亦凡と鹿晗に続いて韓国の会社SMエンターテインメントとの契約終了を公式に発表し、同年6月にZ.Tao工作室を立ち上げた。彼が中国に帰国したのちは、父・黄忠东がほぼ全て彼の面倒を見た。黄忠东は慎重に考えた上で息子のために小さなマネジメント会社を選び、「巨大で強力な企業の末端でいるより小さな会社のトップに立つ方がいい。すっかりこう考えるようになりました。」と語った。

彼は富や力、そして黄子韬という自身の前半生で生み出したこれらすべてに非常に満足している。彼は青島に4つか5つ息子の為の資産を持ち、さらには200億人民元以上に値する会社を所有しているという。息子のボスになるために北京へ来たが、3~5年以内には自身の会社を今日の上海华谊公司(上海にある従業員約4万人の会社)の規模にまで発展させることができると感じているようだ。

 

私の友人たちは“今や君の息子はビッグスターだね。”等と言ってきますが、正直言って私の心のうちは泣いています。私の子供はスターですが、彼が韓国に行ってしまった時から今まで良い日なんてありませんでした。つまり、普通の父親ではなかったのです。

子韬は物事に対して考えすぎるということをしません。これはもう彼の癖になっています。彼は”何があっても僕は大丈夫。”そう思っています。それがなぜか?一体どれだけのことを裏で私がしていたか知らないから、これが彼の癖になったのでしょう。何をするにしても、「パパ、これどうやるの?」「パパ、何を食べればいいと思う?」一度彼が何かに依存すると、何も気にする必要がないと感じるようなものです。きっと彼は、私たちは父と息子であるだけでなく、教師と生徒のように、また兄弟のような関係だと答えるでしょう。

彼は韓国でデビューしてから今まで毎日、「パパ、今日はこれしてあれして…」とすべてを報告してくれます。彼が幸せかどうかに関わらず、どんな女性が好きかも教えてくれます。「パパ、僕あの子のことすごく好き。」こんなことまで全部話してくれます。 

彼は決して私に隠し事をしません。バーに行けば誰と一緒に行ったのかをビデオを撮って見せてくれます。アメリカにいる時には「パパ、ズボンを買ったよ。」とさえ報告してきました。私は彼に、“もう十分大きくなったのだから何でも報告する必要はないんだよ。”と言ったんです。すると彼は“僕はパパが幸せでなくなるのが怖い。”と答えたんです。

これは私の習慣なのですが… 毎日深夜2時に起きます。おかしいですよね。この時間に起きてしまうとその後また眠ることは難しいんです。

今日あなたが見ているこれこそが私です。おそらく想像もできないでしょうが、私は自分自身で多くのことを成してきました。あらゆる面において、です。

私にはこのことを彼に知らせることは出来ません。なぜならこれらのうちいくつかについて、彼がうんざりしてしまうだろうからです。きっと「パパ、こんなことに気を使わなくていいよ。大変すぎるよ。」と言うでしょう。それでも私は“これらには関わってない、心配しなくていいよ。”と彼に言っています。

子韬が初めて(ソロで)カムバックする時、私はすべての物事、特に工作室がどうやるべきか分かっていない分野に干渉しました。ロンドンファッションウィークのためのコピーライティングまでも私が手がけました。深夜2時まで書いていましたよ。私は、服はもちろんファッションに関して何も知りません。だからメディアにリリースすることができるようなものを書くために勉強しましたし、理解もしました。

これは私がすべきことです。ファンたちは彼女たち自身のグループだけでは統率が取れなくなり得ます。だから私はすぐにファンクラブを作りました。誰がファンクラブの会長になるか彼女たちに尋ねましたが、彼女たちは“おじさん、誰も会長になることなんてできない、これはあなたの役目でしょう。(誰が会長になるか)選択された結果に満足しない、喜ばない人がいるだろうから私たちの誰もできない。私たちはただ、あなたの補佐役になることしかできない。”と言ったんです。だから“分かった、私が会長になろう。“と言いました。 

1997年、私はいくつかの長者番付において青島で7番目に裕福な人間に選ばれました。しかしそれ以上裕福になるとは思っていませんでしたし、私は私が持っていたものに満足していました。他の人々は不動産やその他大勢のものにお金を費やしますが、私はレンタカーでも気にしません。それで十分だと思います。その時を境に長者番付に載ることはありませんでした。本当に、TOP50にさえもです。私は今でさえそれでいいと思っています。

今、子韬のために毎日すべき残業がどれだけあるか分かりません。時々子韬が疲れて私にメッセージを送ってくることがあります。私も彼に返事をしますし、一つの返事を書くのに40分以上かかってしまうこともあります。こう書いたこともあります。“私は普通の父親になりたいと言ったが、なれているのだろうか?青島には4つ5つ家があるし、そこで暮らせばもっと快適な生活を送ることができる。じゃあ、何故私はここに来たのか?全部君の為だよね?CEOや重役をしている自分の会社も資産も青島にある。それでも今、私はこの曇った北京にいて、君の会社を経営しているんだよ。” 

正直に言うと、子韬が明日家に戻ってくるとすればとても嬉しいです。彼が水疱瘡に罹った時、いよいよ家に帰ってほしいと言いました。しかし彼が「パパ、僕も帰りたい。でもあと数年、僕に戦わせてほしい」というので“いいよ。”と答えました。

他の人にこの件について話すことは難しいです。仮に話したとしても、彼らはきっと私のことを嘘つきか何かだと思うでしょう。実際、私が息子の裏でどれほどつらい経験をしたか彼らは知りません。どれだけの負荷が私にかかっているのか、誰も知りません。この会社で多くのことが進行していて、その上で子韬がいます。私は個人的に彼の身の回りを世話もしていて、Weiboから百度贴吧まで基本的に新しいSNSは私が管理しています。

私はこう言いました。“子韬、2~3年後、君がまだ十分に成熟できていなかったら、君のチームが私無しで君をサポートする能力がなかったなら、もう私ができることは何もない。これから3年間は君のことを助けるつもりでいるよ。でもそれが終わったらお母さんと一緒に旅に出るね。私は君の人生の重要なイベントに関わっている… パパが数年後に望んでいる暮らしみたいなものだね。今すぐにでもそんな暮らしをするべきだと思っているけど、君のために快く先送りしているんだよ。”と。 

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▲小児期の黄子韬

 

彼はスターになることを好んで、そして唯一の存在でありたいと望んでいます。幼い頃、韬を見た人が“韬、君はとてもかわいいね、スターみたいだ。”と言うと、彼は一日中自分自身をじっと見つめていました。毎朝髪を整えて、“パパ、僕はスターみたいだ。”と言うのです。

彼は晨晨に、”僕はスターになりたい。”と話しました。晨晨も、子韬がスターになれると本当に信じていたと言っていました。子韬は常にその言葉にとても感動しています。クラスメイトはみんな“夢でも見てろ。”と言って彼をからかいましたが、晨晨はそんな人ではありませんでした。子韬は私に、“晨晨は僕がスターになれるって言ってる。”と言うので、私も“そうだね、一生懸命に努力すれば絶対スターになれるよ。”と言っていました。

私は自分の子供が言うことを疑うようなことは絶対にしません。“ああ、君が考えていることは不可能だよ。”こんなことは絶対に言いません。私は16歳で青島に来て、軍学校に入った時には青島に住み続けようと決めました。私たちは九江に近い湖北省黄石市からやって来たのですが、そこはとても汚くて、散らかっていて… 私は青島に行き、そしてそこに両親も家もそっくり持っていって定住するつもりだと言いました。彼らはそんなことが可能なのかと疑問に思っていましたが、4年後、私は全てを成し遂げました。私は誰かをしらけさせるような態度を取ることもありません。だからこそ、一生懸命努力すれば不可能なことは何もないのです。

子韬がスターになりたがっていたので、私は彼に音楽を習わせました。そしてSBSのコンテストに参加して家に帰ってきた彼が、SMが僕に興味を持ってくれた、と私に言ったのです。私は“なんでSMがここに来るんだ?からかうのはやめろ。”と言いました。詐欺だと思ったからです。子韬がSMエンターテインメントはどういう会社なのかを聞いてきたので、私は“アジア最大の『スターファクトリー』だよ。”と答えました。

彼はSMを知りませんでした。Kpopが好きなので、私は知っていましたが。Kpopは素敵なメロディーを持っていますよね。彼が“スターファクトリー”とはなんなのかを聞いてきたので、スターやアイドルをプロデュースすることに特化した場所で、アジア最大であることを伝えました。中国にはマネジメント会社がないことも話しました。彼がまた、マネジメント会社がなにかを聞いてきたのでこう言いました。“スターやアイドルが所属して、歌を歌わせてくれたり計画を立てたりしてくれる場所、それがマネジメント会社。人が会社を経営するように、そこでは人がアーティストをマネジメントするんだ。”

彼は(インターネットで)検索して、それが彼自身のためになると考えました。「パパ、僕は行ってみたい。」と言う彼に“そこでのトレーニングがどれだけ厳しいか考えてごらん。”と言いました。その時は韓庚の訴訟が4~5カ月に亘って行われている時でもあって、私はそのことに注目していましたし、とても大変だと彼にも伝えました。 

私はそこが一体どんなものなのかを知るために彼を韓国に連れて行きました。一度様子を見ると、たったの3日で何のためらいもなく契約を結びました。10年間の契約に関しては言及されていませんでしたし、たとえ20年だったとしても私は何も知らずに喜んで契約したでしょう。

子韬は韓国で7カ月と7日の間、ダンス・歌・韓国語・英語、そして武術のトレーニングを受けました。他の練習生は14時に練習を始め22時には終了しますが、彼は毎朝8時練習を始め深夜2時に終えるため、それ以外は6時間の睡眠を取るだけの生活でした。彼は練習が終わると私にメッセージを送ってくれます。毎日深夜2時に、その日をどう感じたか教えてくれるんです。そして私はどうするべきかアドバイスを送り返すのです。

彼はとりわけ強いですが、その点は私に似ています。なぜならそれが私だから。考えてみてください、私は家族からびた一文も受け継ぐことはありませんでしたが、私は私の道を青島で築き上げてきました。

2002年、私が持っていた現金すべてが、一晩の間に秘書によって持ち去られました。手元に残った現金は、自宅に保管していた4万人民元だけでした。それからの2か月間は子供の学費が必要だったのでとても苦しい時期でしたね。

どうやって維持していたか分かりますか?ポーカーに頼っていたんです。毎週末、友達とポーカーをして3,000人民元を稼いでいました。

依存していたんです。妻は快適な生活に慣れていました。毎月1万元を渡していたので会社に何かあったことなど気付いていませんでしたよ。私はこのことを誰一人に、両親にさえ話しませんでした。手元に残った少しのお金で再び今の状態を作り上げました。

私は、物事は上手くいくと強く信じています。資本市場での今の立ち位置を得るために、誰かに助けを求めたりお金を渡したりしたことはありません。13年間必死に働いて、この会社で約200億人民元稼いできました。多くの汗と涙がすべての仕事に詰まっています。軽度のものなら、あなた方と私が共有し得るものもあるでしょう。

私はいつも子韬に、試練は天や神様からの褒美だと言っています。最初は彼も理解してくれませんでした。だから私は“試練の中にいれば、一生懸命努力していれば、楽園に辿り着くことができるし望みや願いを実現することだってできる。私が今ここにいるのは自分の知能や努力のおかげであって、運や嘘のおかげではない。”と言うんです。

私もその時点で契約を終わらせることを考えていた一人でした。私は彼のグループが本当に好きでしたし、彼に“韓国で少しずつ成長すればいい。”と言っていました。“誰かが君は十分に稼いでないというかもしれない。そんなことは気にしないで、私がお金を送るから。”とも言いました。あちらに1億ウォンは送りました。稼ぎが少ないからグループを離れたいだなんて息子にそんなことを思ってほしくありません。私は彼が安心できる場所に住んで、ただ会社が求める働きをしてくれればよかったのです。数行しか歌うパートがなくても私は気にしていませんでした。彼はデビューしたばかりです。彼も私と同意見でしたし、“僕が今がすべきはいい仕事をすることと一生懸命働くことで、1年か2年すれば会社もだんだんと自分の才能に気付いてもっと自分に重点をおいてくれるだろう。自分のパートをうまくこなすことだけが必要で、量が多いか少ないかはどうでもいいことだ。”とも言っていました。

しかし、今回の怪我だけは限度をはるかに超えていました。

 私が韓国側に求めたのは人道的であってほしいということ、これだけです。もし息子が病気になったら、適切な治療を行って回復させてやってほしい。私はその場でこの条件を伝えました。この件は契約にはありませんでした。彼はそれは重要な問題にはなり得ないだろう、と言いました。この巨大な企業は、こういう側面において本当にできそこないです。 

私は韓国人にも同様の側面があることを知っています。彼らは多くのビジネスを青島で行っています。この質問を考えた時、彼らはきっとこの種の損害は何でもないと答えるでしょう。個人はなにがあってもなんとしてでもすべきことを続けなければいけない。何も影響はない。ひとりの怪我によってグループ全体の利益を害するわけにはいかない。これが彼らが好むやり方です。 

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▲小児期の黄子韬

 

 

私は床を掃除するのが好きなんです。家の掃除はすべて私がしています。掃除をすると心も綺麗になって、うまくいかなかった問題も全て解決できるようになるんです。私が掃除をしている時に考えていることは会社とやっていくうえで重要なことでもあります。韬の一件は余りにもマイナー過ぎたのです。韓国で過ごした間、会社またはチームメイト、さらには彼自身が心の中でどう感じているかに関わらず多くのことを経験してきました。なにか問題があれば彼から電話がかかってきます。そして私は10秒で彼が何をすべきかを伝えるのです。

彼は1993年に生まれました。1歳の時、夜に高熱を出したことがあり、私は病院で2時間も待ったのですが誰も(韬を診てくれる人が)いませんでした。その時薬学を学ぼうと決めてからは、健康診断以外の要件で病院へ行っていません。それから5年間かけて医師免許を取得し、3種の実技試験以外はすべて試験に合格しました。だから今でも私が息子に薬を処方しますし、最近彼が水疱瘡に罹った時もそうです。

軍人だった時の私は高給取りでした。1995年には商事へと転職しました。私たちはとても心地よく過ごしていましたし、USドルを使って息子にいい服を買ってあげていたんです。その後4~5人の子供たちの手を介しても(おさがり?)その服は丈夫なままでした。

しかし私は馬鹿だった、といつも彼に話しています。

小学1年生の時、彼に毎週1人民元を渡していました。他の子はみんなお金持ちになっていき、10~100人民元持っている子もいました。彼が“パパ、どうしてみんながたくさんお金を持っているのに僕はたったの1人民元なの?”と聞くので、私は“他の家はみんなお金持ちだけど、うちは貧乏なんだよ。”と言っていたんです。

彼が小学5年生の時クラスメイトを家に連れてきたのですが 、当時私たちは1997年に購入した青島ではあまり見かけないとても大きな家に住んでいました。息子は友達に“うちは貧乏だ。”と言っていたので、彼らに“こんな大きな家があるなんて、嘘つき!”と叱られ、“君の家は大金持ちだ。”と言われたのです。だから私は“違うよ、この家は借りているんだよ。”と伝えました。

幼い頃の彼が勉強を苦手に感じていたことは事実です。私も強制はしませんでした。高校生の時、彼が手紙を書いてきたんです。“もう学校へは行きたくない。歌うことが好きで、将来スターになれるかもしれない。叶うかどうかに関係なくこれが僕の夢なんだ。”この手紙を読んだ後、“君の望みはなんでもサポートするよ、例え君が国家主席になりたいと言ってもね。“こう話しました。

彼は自分自身の力で仕事を見つけたいと言い、“いい仕事を見つけたよ。”と報告してきました。“どんな仕事?” “英語塾。” “英語塾で何をするの?“ “陌拜” “陌拜って何?”すると彼が、それは塾に生徒を集めるためにチラシを配る仕事だと教えてくれました。だから、”響きはよく聞こえるけど実質は営業だね。“と言ったんです。

彼はとてもうまく困難を乗り越えます。22時になると仕事終えた多くの人が商店街に集まります。毎晩私はそこに車を停めて、彼が路上に立ち誰か英語を習いたい人はいないか、と声をかけながらチラシを手渡している様子を見ていました。

彼の前に姿を見せたことは一度もありません。ただ車の中で待っているだけです。彼はバスで帰宅するので私の車に乗せて帰ったこともありません。彼が選んだ道にもし手を出せば、私が彼をこの試練から遠ざけてしまうことになるからです。

冬の寒い日は妻に息子を迎えに行くよう頼んでいましたが、私は行きませんでした。綿の帽子と衣服を纏った彼が勧誘に成功すると、彼には言いたくありませんが、私は車の中で涙しました。私は後ろにそっと立って、いつも彼のそばにいました。彼は今日でもそのことを知りませんが。数日後、会社の中で塾の勧誘をさせてくれないかと息子に頼まれました。その日のノルマを達成する必要があったからです。私は了承し、彼の右後ろにあるのは私の会社だと教えました。私は従業員に連れて行くように伝え、子韬には彼らのことを全く知らないふりをするように言いました。

今はもう彼も大きくなったので我が家の資産について話したのですが、“パパ、パパはこんなにお金持ちだったんだね、あぁ…”と言っていましたよ。

家族の中に、私がどれだけの資産を持っているか正確に把握している人はいません。私が所有する民間企業(非公開会社)には200億人民元の価値があり、私はそのうちの21%の株式を保有しています。ちょっと考えてみましょう。既に手放してしまったものもありますが、この2年間子韬と一緒に車やその他の高額な品々を購入して、現在は全株式の17.3%を保有しています(ここら辺の株の話は上手く読み取れてないです…)。私がたった1年間で得る配当金が彼が半年かけて稼いだ額と同じくらいです。彼にこのことを告げると「パパ、それは凄いよ。なんでそのことを世間に公表しないの?」と言うので、“余りにも人目を引いてしまうからそんなことはできない。”と答えたんです。それでも彼は公表するように主張してきましたが“それは絶対にできない。”と拒否しました。

彼は絶対にこれらを他と比べることはしませんでした。しかし人々は、自分の家は貧乏だと言った彼のことを馬鹿だと叱りました。そして彼は“パパ、どうして僕が貧乏だなんて言ったの?僕は貧しくないよ。僕がお金持ちだっていうことは将来みんなにばれることなのに。”と言ったんです。この一件が原因となって、その時から彼の思考や態度をこういう(あまり良くない)ものにさせてしまったんだと思います。

しかし今では物事はうまくいっています。知ってますか?彼は車を買ったんです。私は彼にそのことを周囲に知らせないように言いましたし、誰も知ることはありませんでした。“私から学ぶべきことがある”と彼に伝えました。私の周囲の友達は私が乗っていた車の車種も、私が車を買ったことも知りませんでした。

車の購入に関して、私は青島のトレンドセッターであると言えるでしょう。私は2年ごとに車を買い替えます。1994年に転職した時、世界中にたった16台しかないホンダXXを購入しましたし、50台の〇〇(車のブランド名)が中国に輸入された時には、それを購入しました。 

私は今レンタカー事業を行っているのですが、私の所有する車もレンタルできるんですよ。私はレンタル料を稼いでいますが、それが私の車だと知る人はひとりもいません。

そうですね、人が持っているオーラや自尊心についても同じことが言えると思います…彼はまるでプリンセスのように、幼い頃から教育を受けていていました。生まれつきオーラを持っていて、それでいて他の誰とも違います。常にお金があるように見せることはただの空威張りで、それほど重要なことではありません。 

子供の頃、彼はラジコンで遊ぶ度にばらばらにして壊していました。妻は息子の行動にびっくりしていましたが、私は気にしなくていいよと彼女に言っていました。私は後ろから眺めていましたが、彼はドライバーを手に持って、車を解体しようとしているようでした。しかしそれが無理だと分かると、今度はハンマーに持ち替えて中がどうなっているのかを見ようとしていました。私は彼の邪魔をしませんでしたし、何かを言うこともなかったです。そして彼が“壊れちゃった。”と言うので、“大丈夫だよ。”と言い、新しいラジコンが欲しいかどうかを聞いて、もし欲しいと言えば新しいものを買ってやりました。

彼は決して利己的な人間ではありません。心の広い人間です。今まで自分勝手にふるまったこともありませんし、こんなことは気にしません。 

彼のことを愚かで低能だという人々もいますが、それは何も間違ってないと思います。私が言いたいのは、そういう性格の人間は非常に現実的であるということです。彼は疲弊しません。行動や目的について考えすぎることもありません… それはとてもいいことだと私は思っています。私も若いころはそうでしたし、それでここまでうまくやってきました。人と比べて良いも悪いもないです。 

今、黄子韬はあまりに世間を知りません。とても無知だという点で、彼は少し愚かだとも言えます。しかし、彼が愚かな人間であろうと、私は何も恐れません…ただ、自分らしくあればいいのです。もし私が韬の性格を変えてしまったりすれば、それはもう黄子韬ではなくなります。性格を変える必要なんて全くないんです。

彼はあまり周囲に気を配りません。今まで何度も何度も言い続けてきましたが、いよいよとなると全く役に立たないんです。例えば、彼が幸せを感じていない時、彼は幸せではありません。メディアを前にしても、彼にとってそんなことは重要じゃありませんし、相手が誰であろうと気にしません。ある日彼はとても疲れていて、それでも『私が君主だ(我是大主宰)』の昼食会に参加しました。夜になってジャッキー・チェンさんが夕食を一緒にどうかとお誘いしてくれたのですが、“あまりに疲れているんです。食べたくありません。”と言ったんです。

私はその時子韬にこう伝えました。“自分の心が教えてくれたことだけをやるべきなんだ。気持ちを誤魔化したり嘘をついたりする必要もない。誰に聞かれようと思ったことをそのまま言えばいい。せいぜいここまで、もう止そう。今すぐ仕事を辞めてくれ。” “仕事を辞めるなら私の株式を全部譲るから、なんでも好きなことをすればいい。私は君だけ、私の息子だけがいればいい。あんなにたくさんのお金は私と妻の余生には十分すぎる。残りは君のものだよ。“とも伝えました。

私は彼のことをよく理解しています。この話を進めるうちに彼がこう言いました。“嫌だよ、パパ。自分の人生は自分で決めたい。僕はこれが正しいと思ってやった。もし僕のやり方が間違ってなら教えて。”そこで私は続けました。“相手がジャッキー・チェンであろうとなかろうと君は夕食に行くべきだった。少し食事を楽しんだ後で、実はとても疲れているんだと言えば良かった。あんな振る舞いはすべきじゃなかったよ。”

私は父として、彼が安全に、幸福であって欲しいということだけを願っています。私は会社をいくつか買収できるくらいの資産を持っていますし、息子がここまで無理をする必要もありません。けれども、こんなことを彼に話そうとは思いません。

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▲黄子韬と家族

 

私は彼のアンチファンを恐れてなどいません。いたって普通のことです。有名になれば自然と論争も起こります。本当に、本当に、当たり前のことです。

私は以前から忠告もしてきました。“デビューすると同時に君を攻撃する人が現れるだろう。でも同じように君のことを好きになってくれる人も現れるから。”と伝えていました。こんなことは予測可能の事態です。ただ一点奇妙に思ったのは、彼が帰国した後のメディアの踏襲です。これは予想していませんでした。

彼はWeiboのコメントを読むのが好きです。私は彼に、“もし他人の意見を気にし続けるのなら、もう自分の人生は歩むことはできない。それに、いくら行動を変えたとしても彼らが満足することはないよ。”とも言いました。

この件に関して喧嘩をしたこともあります。その時私は、徹底的に彼の心を傷つけてしまいました。多くの人々が自身を悪く言っている状況を、彼は望んでいませんでした。私は怒っていました。以前から忠告をしていたし、こういうことに備えて心の準備をすべきだったとも言いました。“君に文句を言う人はなんで君に文句を言うのかな… 君が引き起こしたいくつかの要因があって、他人によって故意に作り出された部分もあって、チームの問題点もある。私たちは、これらの問題点は無視して、修正するべきことはきちんと修正すべきだ。一日中こんなコメントを見続けているのに、スタートして上手く仕事をこなせるのか?”こんなことも言いました。

“僕はこんなことしてない、(音楽とずれた)このラップだって僕がやったんじゃない。彼らがこういう風に編集したんだ。”とこんなことを言うので私はまたこう言いました。“これは仕方ないことだよ、気にしなくていい。このweiboの広告も必要となれば買収するから心配しなくていい。君は、君がうまくできていない部分を上手くできるように努力すべきじゃないか?自分自身を高めることに専念すればいい。私もチームの仕事に専念する。今はもうアンチファンではなくなった人もいるし、まだアンチをやっている人も適当に話をでっち上げているだけだ。やりたいようにさせてやろう。”

要は考え方の問題ですよね。私はこの状況に慣れてほしいと思っていました。今ではこの件を心配することもなくなりましたし、彼も気にしなくなりました。彼について言及してくる人は…アンチファンであろうと、文句を言われようと彼には何も関係ありません。こういう考え方をすることで彼は平和な状況で働けますし、仕事を上手くやり遂げることもできます。

“そんなことは忘れなければならないよ。気にすればするほどより多くのものを失ってしまうから。”と彼に教えました。

正直言って、ここ最近の2か月間は彼にとって試練だと思います。セットでの撮影のために朝7時過ぎに現場に向かいますが、彼に声がかかるのは昼の3時頃です。こんなにも長時間待つということは、彼にとっては、本当に大変なことなのです。私は彼に、不平や不満は全部、関係者ではなく私に話すように言い聞かせました。“周囲の人に君を無礼な人間だと思ってほしくないんだ。”とも言いました。彼は、私に対しては思っていることを何でも言うことも、怒りをぶつけることもできるのです。

だから彼は私にメッセージを送ってきました。“今はもう昼の12時だけど僕は5時間も待たされてる。おかしいと思わない?”私は“確かに、彼らは気が狂ってる。”と返信しました。その後何をすればいいかと聞かれたので、“最初は辛抱強く待って、それから自分のゲームをすればいいよ。“と答えました。

誰がこんなに我慢強くいられるのでしょう?私は運転中10分待たなければならない時でさえイライラします。あなたは7時間待ってと言われて、それでも気分よくいられますか?しかし周囲の人もみんな、こんな状況をあくまでやり抜いてきました。

私が彼にゲームをすればいいと言ったので、私は毎日欠かさずゲームをプレイするためのお金を送っていました。しかし今の彼はゲームですら我慢することができます。『チャーミング・ダディ(闪亮的爸爸)』というリアリティ番組に出演しているために、眠っている間でさえ彼は常にモニタリングされ、撮影されているからです。自由なんて全くありません。『チャーミング・ダディ(闪亮的爸爸)』が彼にとって初めてのリアリティ番組で、ジャッキー・チェン作品が彼の初主演映画となります。彼自身“今自分にできないことは何もない。”と言っていました。私たちが依頼したTV番組や映画がどんなものでもやり遂げることができるんです。これは大きな成長ですよね。

実は、今のような形になったのは私が望んだからでもあります。彼は映画やTV番組、それに多くの企画はとても厄介で複雑だと感じているのですが、私は彼に音楽だけをやっていくことはできないと言いました。彼の音楽を世に送り出すために、年に1枚のアルバムを出すことも許可しましたが、会社が利益を生み出すためには彼が生き残っていく必要があります。“じゃあ、どこからお金が入って来るんだろうね?映画とTVだよね。”と彼を説得しました。

『チャーミング・ダディ(闪亮的爸爸)』は私に“あなたの息子さんについて一番誇りに思っていることは何ですか?”と尋ねてきました。私は”彼がスターである理由が彼自身のためやお金を稼ぐためではない…、という点を一番誇りに感じています。”と答えました。

幼稚園に通っていた頃、ある子が棒を使って子韬の目を突いたせいで、彼が病院で3針縫う治療を受けたことがあるんです。彼が家に帰ってきてから彼の祖母が“なぜ武術を習っているのにその子に反撃しなかったの?”と聞きました。私は母に“そんなことは言わないでやってくれ。”と言いかけましたが、私が全てを言い終える前に彼が何を言ったか分かりますか?“僕の武術は戦うためのものじゃない。自分を守るためのものだ。”と言ったんです。その時の彼はたったの5歳でした。

彼が言ったこの言葉を、私は最も誇りに思っています。

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▲児童期、武術をする黄子韬

 

そうですね、自分を怪我させた子に対する彼の態度は私に似ていると思います。彼は貝貝に勇敢であるようにと教えました。このような機会が存在しているのですから、人は良く学ばなければなりません。私が彼に音楽を習わせた時のようにです。人が本質的に善である限り彼の心は優しく、この2点が変わらないでさえいれば他のことは重要ではありません。

私は彼にこんなことを教えていました。親というものはなんだかんだで自分たちの子供に影響を与えています。彼の言動や思考が私に似ていることを彼自身はおそらく気付いていないでしょう。しかし一度でも、私と共に十分な時間を過ごしたなら、自然と彼の心に強く刻まれるでしょう。話の最後になりますが、彼は“子供の世話をするなんて1日でも耐えられない”と言いました。だから私はこう言い返しました。“君も知ってるだろう?私も君のことを20年以上に亘って面倒を見てきたんだし、今でも君は子供みたいだよ。”

彼の成長を当然私も期待しています。彼も私に「パパ、僕がどれだけ凄いか見て。」と直接言ってきたんです。私はそれほど素晴らしいとは感じていませんでしたが、“本当にすごいね。”と言いました。しかし、今私たちが実際に何と言っているかを彼に教えはしません。これは間違いなく私が予想した通りで、すべての父親には父親としての責任があります。まず子供を受け入れてあげるような父親であること。そして子供のために自分を犠牲にできること。つまり、あなたが子供のためにどれだけたくさんのことを裏でしてあげたとしても、彼(彼女)にはその事実を伝えてはならない、ということです。むしろ彼(彼女)には、それは自分の能力だと感じさせてください。私は子韬に、成長は自然と訪れると思ってほしいんです。おそらく今はまだその最初の段階にいるので、私は父として彼を助けてやらねばなりません。しかし、いつか彼が私たちの助けを必要としなくなる時が自然に訪れて、その時、彼は堂々とトップに立つのでしょう。これは今までずっと育ててきた彼に対する自信のようなものです。

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source 父亲谈黄子韬:有人说他傻、彪,但这样的人实在,不累 | 名人背面

 

ENG trans by @myprincecandy

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